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日製総合病院前から約10分の助川城跡公園を出発して約1km、最初の道標がある。『高鈴山へ7.5km、助川城跡へ1km。やがて大山祗神社の新しい石祠が祭られている。以前は木製の社であったが山火事で焼け落ちたあと石祠になった。
しばらくいくと日立セメントの鉄索の下を潜る。このあたりは平成3年(1991年)3月7日木曜日、助川山林に発生した大規模な山火事の跡である。山の大樹は尽く無残な焼け跡をさらしている。
ダラダラ遊歩道をしばらく歩く。電線工場へ下りる山根分岐道を過ぎる。道標『高鈴山へ6.5km、助川城跡へ2.5km、電線工場へ2.0km,がある。高鈴山ハイキングコースの遊歩道は良く整備されていて歩き易い。
石切場を右に見て歩く。少し急な登り坂の入り口に道標『高鈴山へ6.0km、助川城跡へ2.5km、石切山』がある。坂を登った所に道標『高鈴山、助川城跡、石切山』がある。やがて左手前に328.3mの助川山が見えてくる。
道は山の遊歩道から突然、幅5〜6mの開拓中の未舗装だが大きな道路に出る。平成3年の山火事の跡を公園化するため日立市が進めている事業である。今年は『助川山市民の森公園整備』として約11億4千万円が投入される予定である(日立市報:第1127号平成9年4月5日)。完成した暁には小木津山自然公園と並び、市民の憩の場となるだろう。
右手に大峰山346.8mがある。市民の森公園の道を過ぎる頃一箇所だけ、約100mの急な上り坂がある。このコース唯一の胸突き八丁である。
出発して約2時間、直線距離で5km、『金山百観音』(標高約360m)に到着する。
本日の講師榎本氏の説明を聞いた。今、歩いて来た道は『塩の道』として河原子、会瀬など海岸地方と東河内、入四間など山間部を結ぶ流通路であった。
また、この道は、この先、高鈴山を越えて御岩神社への表参道であったことなど。途中にあった馬頭観音などから、昔ここを人馬が通ったことを物語っている。
百観音というが、現在、百体は揃っていない。確認されているのは「西国」30基、「秩父」24基、「坂東」1基、合計55基である。会瀬1丁目13番の子育地蔵に「秩父」1基と「坂東」の32、33番が御岩山の山中にある。あとの残りは未だ、山中に埋もれていると考えられる。建てた年号は安永3年(1774)が殆どである。
観音像に刻まれた奉納者の名前は遠く紀伊の国の人もいるが下孫、会瀬、油縄子、等の人の名が見られる。唯一つ、秩父三十四所観音礼所の十二番に田尻村中の字がみられるのは感激である。<br>
飯土井氏はこの観音を地中から発掘する現場に立ち会っておられる。<br>
この金山百観音では毎年旧暦3月4日に祭礼が行なわれている。祭主の西野氏が参拝者に投げ?をされるという。
旧暦3月4日 平成8年4月21日日曜日
平成9年4月10日木曜日
この祭礼は以前は金山集落の西野氏と北の沢の西野氏が共同で執り行っていたが、現在は金山の西野氏が行なっておられるとの事である。
百観音の現場には立派な清掃用具が準備されており、普段から周囲が手入れされている様子が伺える。金山観音の保全に関わられているのは次の方々かと思われる。
金山集落 西野 重美様・22ー5908 助川町3184
北の沢集落 西野 信一様・35ー7864 諏訪町1088
・ 百体観音について
★人里から遠く離れた山の雑木林の中、三基の石祠を中心にした塚の周りに並び立っている。この三基の石祠は「三熊野」といわれている。ここは助川町追上峰金山地内である。
★金山(かなやま)というのは江戸期の助川村の小字名である。このあたり一帯で金の採掘が行なわれていたのでこの名がある。
★百観音の百は西国三十三所観音礼所、坂東三十三所観音礼所、秩父三十四所観音礼所の合計百所を意味している。
★観音は三十三態(体)に化身して法を説く(観音経)、ということから三十三か所の観音堂を巡る信仰が生まれた。
★三十三所観音礼所の本尊は、・千手(せんじゅ)、・如意輪(にょいりん)、・十一面(じゅういちめん)、・聖(しょう)、・馬頭(ばとう)、・准
胝(じゅんてい)、・不空羂索(ふくうけんじゃく)、の七観音のいずれかになっている。
★三十三所観音礼所は全国にある。
例えば 水戸三十三所礼所 中里の十四番・玉廉観音、田尻の十五番・ 度志観音 下野三十三所礼所
会津三十三所礼所
参考文献
1 日立郷土博物館 第五回ふるさと探訪会資料
2 日立郷土博物館 石仏調査報告書 「ひたちの野仏」第3集 金山百観音・御岩神社
3 柴田勇一郎著「ひたち地方の伝説」昭和52年7月31日発行 日立市民文化事業団
4 小林 利喜著 「日立金山百観音考」昭和52年11月25日発行 非賣品 平成9年5月9日記述
(江田 実 記)
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